2015年1月31日土曜日

【 関門海峡に夕日が落ちる 】 〜 花嫁の父はお別れの日に… 〜

33年来の友人、微笑みの画家[市川 武 ]の息子の結婚式に立ち会う。関門橋を渡り下関へ…。花婿の父は淡々としたもの。(とは言え、最後の挨拶で感極まったけどね…鬼の目にも…だね。感動したよ。)さすがに母は小さい頃の苦労を思い浮かべるのか…2度3度涙をぬぐう…。花嫁の母は「しっかりね!幸せになりなさい!」と強く娘を見送る…。花嫁の父は、、、嬉しくて…寂しくて…ちょっと悔しくて… なんか所在なく、腹をくくり、天井を見上げそして、娘に別れをつげる…「幸せになるんだよ‥」
式を終えて外に出ると、ビルの谷間に白い月が… 関門橋の下を外国の貨物船が意外と早いスピードで通り過ぎる… 遠く西の空は今日の夕日が赤く染まっていた… 《 子供たちを見送った両親の背中には、一すじの安堵感と一抹の寂しさが漂っていた…》 
ー いい日だった ー









2015年1月30日金曜日

【 熊本城を走る〜滑り込み初詣 】〜 幸運の扉は自分でこじ開けるのだ 〜

熊本城マラソンの無事完走を願って、先ずは熊本城の守り神として加藤清正肥後入国以来400年以上の歴史のある[熊本城稲荷神社]へご挨拶。ちょうど伺った時は、2月3日の〈福詣り〉で知られる〈初午大祭〉の準備の真っ最中で、《初詣》の垂れ幕が正に外されかけているところでした。「危うくセーフ…」。『白髭さん』で親しまれているが、滋賀の[白髭神社]も我が家の近くにあり、何か深いご縁を感じる。そんなこんなでギリギリに飛び込みでお参りしたせいか、おみくじは【中吉】。「ちょっと反省…」。すぐ隣には熊本城の[不開門]。なかなかそう簡単には【幸運の扉】は開いてくれないかもしれませんが、熊本城の石垣の《武者返し》の様に…熊本の県木の《クスノキ》のように…“大空に胸を張って堂々と、どっかと根を下ろしまっすぐに前を向いて”今年も歩いて行けたらいいなあ〜と思いました。
《 幸せだから感謝するのではなく、感謝するから幸せになる… 》







2015年1月29日木曜日

【 ふるさとの夜明け 】 〜 三社参りを終えて… 〜

今年初めての里帰りです。新幹線【さくら555‼】が何とも元気が出て〈イケイケ!〉で嬉しいです。
遅蒔きながらの初詣を兼ねて、故郷の夜明け前を【走り初め】してみました。いつもは車でスーッと走りぬける故郷の風景をゆっくりと走ると、普段は見落としたものがどんどん見えてきて実に新鮮です。まずは荒尾で1番由緒ある[野原八幡宮]。時間が早すぎて、おみくじは置いてありませんでした。小岱山を遠目に見ながら梨畑を抜けて海岸へ。ちょうど通学時間と重なり子供たちとすれ違う。こっちの小中学生は大きな声で『おはようございま〜す!』と言ってくれて、まあ〜こころが洗われるなぁ。残念ながら今日は曇りで雲仙も見えません。次はおなじみ[四山神社]。やった〜!初おみくじで【大吉】をいただきました。ここは9割以上の確率で大吉です。〈今年も春から気分がいいなぁ〜》。最後は小さいけど味のある[西原神社]。ここもおみくじは無し。とりあえずは今年の初詣ができてひと安心です。
《今年も無事で元気に1年が過ごせますように…。もっと優しく…もっと強く…もっと穏やかに…もっとしたたかに…》
 2015 1.29 関島秀樹 荒尾にて…







2015年1月26日月曜日

【 初夢・新歌舞伎座の大舞台 】 〜 ここで歌えた幸せ 〜

この大舞台に上がれる人がどれくらいいるだろうか…。見上げるほどの3階までの華やかな客席。下手には数々の歌舞伎役者やスターが登場してくる花道。こんなすばらしい大舞台で歌えるなんて… ここでギター1本で、弾き語りの歌を披露した人はひょっとしていたのだろうか… 。島津亜矢さんのコンサートに初めてゲストで呼んでいただきました。なんともったいなくありがたいお話でしょう。島津亜矢さんが歌う「帰らんちゃよか」を僕のギター1本とハモニカで伴奏させて頂きました。そんなこともかつてなかったでしょう。大胆な事をさせていただきました。なんと人生は、先の読めない楽しいことが待ち受けているのでしょうか…。大胆なことをさせて頂きました。大変な経験、素晴らしい思い出をいただきました。島津亜矢さんに感謝です。そして島津亜矢さんを身内のように応援してくださる暖かいファンの方にも感謝です。新年早々どうもありがとうございました。さあ!明日は故郷に帰って初テレビ出演だ!初詣もようやくできそうだ…









2015年1月25日日曜日

【 にっぽんの夜明け… 本日歌い始め… 】~ 遠い世界に旅に出ようか… ~

ジェットラグ(時差ぼけ)で朝4時ごろ目が覚める。おかげですばらしい朝焼けを見ることができる。自然は二度と同じ顔を見せない! 多分人間もきっとそうなのに、いつも同じようなことをやっている気になっている。いつも同じような明日が来ると思い込んでいる。同じ明日は来ないのだ。今までに経験したことのない新しい明日が待っているのだ。
今日は今年の歌い始めでした。最後にステージで、僕の音楽人生に1番影響を及ぼしたフォークグループ【五つの赤い風船】の元べーシスト《長野たかしさん》と[ 遠い世界に ]を一緒に歌った。今から45年前、高校1年生でフォークソングを始めた頃、僕は自分のテーマ曲がこの『遠い世界に』だった。あの当時、高校生だけで夜のコンサートは行けなかったので、担任の美術の《小山桂一先生》が僕とあと2人の友人を連れて、[熊本図書館ホール]であった{五つの赤い風船のコンサート}に付き合ってくれた。あの時の感動と衝撃は今も忘れない。あの日がなければ、これほど五つの赤い風船にのめり込まなかっただろうし、それ以降の僕の音楽人生もなかったかもしれないのだ…。45年後にあの客席で憧れて見ていた赤い風船のメンバーと『遠い世界に』を一緒に歌うことができるなんて…奇跡のような夢のような信じられない時間でした。
明日が来る幸せを噛み締めている…。明日は《 島津亜矢さん 》と同じステージに立つ











2015年1月23日金曜日

【 帰ってきたぞ〜 】〜 雪だあ〜寒いなぁ〜 〜

『大変長らくお待たせいたしました。無事日本に帰ってまいりました。』
『皆さんには大変ご心配、ご不自由、ご迷惑をおかけしました。』
『関島秀樹の、新たなる2015年の日本でのスタートです。』
『年賀状、今頃拝見させていただきました。失礼をしました方にはこれから返事をかかせていただきます。』
『初詣はこれからです。また今年もいっぱい《大吉》をいただけたら嬉しいです。』『歌い始めは京都左京区【吉田】です。』
『初舞台は“大阪新歌舞伎座”での【島津亜矢さんのコンサート】です。』
『初テレビは、熊本県民テレビの【テレビタミン】です。』
『初マラソンは【荒尾市民マラソン】です。
『初ライブは【尾道】です。』
『新生【岱志高校の校歌】も見えてきました。』 
初新年会…初温泉… まだまだこれから楽しみがいっぱいです。
『あっ! そうこうしているうちに、【熊本城マラソン】までもう3週間になってしまった。』『そうそう、日本での初トレーニングをしましょうか。』

『山には雪が積もっていますが、今日は雨で比較的暖かいです。吹き溜まりの雪を踏みしめながら軽く体をならしていきましょう。ただただ、《無事完走》を目指して…』

… 今年もどうぞよろしくお願いします。くれぐれも体に注意をして、健康で楽しい1年を目指しましょう❗️ ライブは少し控えますが…、このFacebookも、さほど頻繁にはUPしませんが… 、歌に対する情熱は熱く燃えています。またどこかでお会いできるのを、心より楽しみに、日本での新年をぼちぼちスタートさせたいと思います。









2015年1月21日水曜日

【 アメリカでの休息の“終わり ” 】〜 いよいよ日本での “始まり” 〜

あっという間の一ヶ月でした。年が明け、2015年もすっかり動き始めている。なのに、まだいただいた年賀状にも目を通せてない。申し訳ありません。お返事もこれからです。
20日に、母校国士舘大学の柔道の金メダリストで素晴らしい指導者[斎藤 仁]さんが54才の若さで亡くなった。彼の人間性とも合わせて残念で残念でならない。彼のやり残した悔しさを思うと言葉もない。ご冥福をお祈りします。おかげさまで、僕はまだ生かされている。日本に帰ったら《熊本城マラソン》まで三週間だ!今のところ 何とか体調も壊さず大会に望めそうだ。元気でいられる幸せを噛み締め、いろんな思いを背負って、無事完走したいと思う。
また、元気で皆さんとどこかで再会できるのを楽しみにしています。どうぞ、くれぐれもお元気で!いろいろご心配、ご迷惑、ご不自由をおかけしました。《関島秀樹、おかげさまで元気です。新しい年を!どうぞよろしくお願いします。》
▽写真3・・カリフォルニア高瀬会(母校、玉名高校)現会長[堀尾誠治】さんと… (玉高8回卒、岱明町出身)
写真・・パームスブリングスの[神戸レストラン]で成功された、[井原SEISI ]さんと… (荒尾一中〜荒尾高校卒)
写真5・・南カリフォルニア滋賀県人会、前会長[榎 TOSI ]さんと… (長浜出身)






2015年1月20日火曜日

【 l Have a Dream (私には 夢がある)】~ 公民権法から まだ半世紀 ~

非暴力でアメリカの黒人公民権運動を指導し、1964年に人種差別をなくす公民権を勝ち取り、ノーベル平和賞を受けた[マーティン・ルーサー・キング牧師]の功績を讃え、1月第三月曜日は祭日だ。その四年後に暗殺されるが、1963年の25万人近いとも言われるワシントン大行進の後、リンカーン記念堂まえで行った演説が多くの人の心を掴み、アメリカを動かした。【Selma】と言うキング牧師の映画が注目されアカデミー賞にもノミネートされている。自由と民主主義を掲げている国が50年だ。心の中の差別意識はまだ根が深い。こんな僕でも日本を代表していると思うことがある。僕のちょっとした言動が日本人のイメージとして捉えられるかもしれないと思うからだ。バカバカしいと思われるかもしれませんが、それがささやかな日本人としての僕のプライドにもなっている。長い年月をかけてアメリカで日本人としての地位を築いてきた先駆者たち。今新しい事業をアメリカで展開しようとしている若い日本人たち。日本人としての自信とプライドを持って頑張って欲しい。街中で日本の看板を見るとつい応援したくなります。





2015年1月19日月曜日

コンクリートの街で

関島秀樹デビュー30周年記念コンサート
 京都 アバンティーホール(2009.9.12)
 A.Gt.&Vo.関島秀樹、Dr.五十川 清、E.Gt.三好ひろあき、Pf.口垣内八州彦、
             Ba.川辺ぺっぺい、Vla.鈴木民雄、Syn.牧野 麗

♪コンクリートの街で

2015年1月17日土曜日

[ 1月19日は五十川清くんの命日です ] ~ あれから5年が経ちました ~

まだどっかであの優しい微笑みを投げかけてくれているような気がしています。僕のデビュー30周年コンサートin京都アバンティー(9月12日)が五十川くんとの最後の仕事となりました。あの日の朝彼は少し肩を落として「やっぱり駄目だった…」と一言僕に精密検査の結果を告げました。コンサートはそんなこともおくびにも出さず、いつも通りの素晴らしいドラムを叩いてくれました。
五十川くんとは実はデビュー前からの縁があったのです。今から37年ほど前、僕がまだ東京の音楽事務所で働いてる頃、京都で大人気の[バックスバニー]の全国プロモートをその事務所でやることになりました。それから7年後、もう1人のメンバー[北村謙]さんの紹介で京都で出会うことになろうとは思いもよりませんでした。それから約25年、僕の音楽を支えてくれていました。同い年と言うことでプライベートでも色々と話をすることがありました。最後の夏の荒尾でのコンサートの後、天草~水俣と回って八代の[原鶴温泉]でゆっくりと露天風呂に入りました。とにかく温泉は大好きだったなぁ~。亡くなった時も今回も、僕はロサンジェルスにいて顔を出せません。だから僕はまだ彼がどこかにいるような気がしているのです。
19日の夜は、彼の大好きな音楽仲間が集まって、京都、都雅都雅でコンサートを開きます。行けるような方、よかったらどうぞ覗いて見てください。→ 都雅都雅ホームページ http://togatoga.jp/









あの日を忘れない

〝あの日を忘れない〟作詞・作曲・歌 関島秀樹
 この歌は[阪神淡路大震災10周年]を控えた前の年、「世間が久しぶりに思い出し、注目されるのはうれしいけど、これが過ぎたらまたみんな忘れるよね。」と言う被災者の声に返す言葉もなく、歌にしました。この歌を作るそもそものきっかけになったのが『稲むらの火』でした。もう11年になります。この二つの歌が出来て半年ほど後に[スマトラ沖大地震]でインド洋で大津波が起き、22万人以上の人が亡くなりなりました。《あの日を決して忘れてはならない。伝えて行く責任がある》




【阪神淡路大震災から20年】 ~あの時の揺れは今も覚えてる~


20年前という感覚… 親たちの世代は昭和40年(巨人のV9が始まった年)、敗戦の昭和20年をこんな感覚で思い出していたんだろうか…。焼け跡からの復興。ベビーブーム、もはや戦後ではない。所得倍増、高度経済成長… 日本人皆がむしゃらに働いてあれよあれよの20年だったに違いない。しかし〈夢〉や〈希望〉はあった。一生懸命頑張れば、何かを掴む事がでる…。
この20年…。失われただけだったのだろうか…? 戦前の大部分を反省し否定するところから、ひたむきに歩いてきた70年は何だったんだろう。人を信じ、祖国を愛し、自分を大切に、子供たちと、世界に向かって胸を張って歩けるようになったのだろうか…。
あの年、[ボランティア元年]といわれた。日本人は、助け合い、気遣い、譲り合い、分かち合い…優しく、強くなっただろうか…。
自分自身を振り返る…《あの日を忘れない》…。四年前の東日本大震災と共に…経験を生かし、失敗を繰り返さない。出来る限りの備えと、普段の意識で防災、減災につなげ、悲しみがひとつでも、少しでもなくなりますように…






2015年1月15日木曜日

【LAより梅の便りをお届けします】~YAHOOではなく和風です~

あちこちに日本人の足跡が残ります。今年は太平洋戦争敗戦から70年です。日本人がアメリカ本土に移民を始めてほぼ130年。様々な困難を乗り越えてようやく信頼と市民権を得た矢先の太平洋戦争でした。アメリカ人として母国と戦うのか?日本人は築いてきた地位も財産も失い収容所に送られた。アメリカに忠誠を誓いアメリカ軍として戦った日系人のみで組織された442部隊のヨーロッパでの活躍は高く評価され、戦後の日本人の信頼回復にも大いに寄与したものでした。今年の1日の全米が注目するロスで行われる恒例のローズパレードでは、90才を越えた元442部隊の兵士たちが参加し称えられました。日本の軍隊としての戦争体験者も同じく90才を越えます。多くの犠牲の上に築きあげられた今の豊かで平和な現代。国を守るために防衛は必要です。でも戦争は絶対に避けなければいけません。あの罪のない犠牲者や、将来を無にした若者たちの死を繰り返してはならない。体験者として語り継ぐ人がだんだんいなくなります。ますます不安定な国際情勢です。人間は科学技術の進歩により毎年豊かになって行くなかで、人間そのものは進歩、進化、成長してるのだろうか…。
今日は【荒尾梨】の創始者我が祖父、関島増男の36回目の命日でした。僕のデビューを知りながら、見届けることなく同じ年に91才で亡くなりました。